Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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①道元を読み解く October 27, 2017
by 得丸 久文 (著)
5.0 out of 5 stars
本書読了後の2019年の備忘録を記載した:誤り訂正符号化理論を用いた精緻な解析により全く新たな洞察の次元を切り開いた
Reviewed in Japan on July 4, 2021
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本書から結論できるのは、道元による「宗派」とりわけ「禅宗と称する者」たちへのこの上なく苛烈な批判のターゲットは、先ず何よりも他ならない眼前の日本達磨宗の偽装入信者:エージェントたちであったということだろう。本書によれば実行部隊:リアルポリティクスのリーダーは懷鑑である。 引用「越前下向における最大の問題は、達磨宗の道元への帰依が偽装であり、達磨宗は宗派としてきちんと継続していたことです。」「達磨宗による永平寺支配が確立した。」日本達磨宗もこれほど激しい迫害を受けて逃げ延びた直後の時期に懐奘を核とするその最枢要の精鋭たちが教団維持復活をそうあっさりと諦めるわけはないだろう。人類の歴史においてはこの仮説に類したステルス的乗っ取りはありふれている。懐奘は道元という存在を理解し知悉していたからこそその存在そのものであるテキストと組織をステルス的にかくも見事に改竄できた。だがその試みは完璧な成功を収めることはできなかった。

 本書によれば日本達磨宗は当初からの綿密なプラン通りに 道元の弟子として法を継ぐ力を持っていた二人の若い僧(特に僧海)を排除して、一旦壊滅に追い込まれかけた日本達磨宗教団組織の新たな本拠地として(恐らくは波多野義重も日本達磨宗徒として当初から連携して)越前に移った。道元は最愛の弟子二人死亡後、最終的に「永平寺の僧は使いものにならないと判断した。」

 本書によれば「現成公案」巻は建長4年にそれまで道元が継続していた吟味推敲を経たあと75巻本『正法眼蔵』の「第一」として道元自身によって収録された。道元は倒れる直前まで『正法眼蔵』75巻本の吟味検討推敲を繰り返し完成させた。すなわち「現成公案」巻は決して「若書き」などではない。「若書き」だと述べたと記憶する永井均氏の見方は間違いである。著者によれば正法眼蔵と永平廣録の最終的な完成・清書作業に対して鎌倉の了心と良忠は全面的に協力した。つまり正法眼蔵も永平廣録も決して「未完の遺稿」などではないということである。

 道元が病に倒れたのは前年建長4年の秋11月以降。懷奘は長らく正法眼蔵を書写してきたが道元が倒れ懷奘に永平寺住職を委ねて以降は道元自らが懷奘による「書写」を校閲することは不可能だったと思われる。著者によれば道元は改竄を予測していたからこそ誤り訂正符号化処理をした。著者によれば「この誤り訂正符号化の理論は、二十世紀最大の数学者とされるノイマンやゲーデルが考えていたことであり、それを 道元が八百年前に実践していたことには恐れ入ります。道元のテキストを取り扱うにあたっては、細心の注意を払う必要があるのです。」

 本書によれば、どうやらことの発端は道元が死亡した年建長5年(1253)に始まる道元本人ではない懷奘による「書写」らしい。つまり最後の年に道元が病に倒れ永平寺住職の座を懷奘に委ねた直後からの「書写」作業だろう。本書によればこれが懷奘をプロジェクトリーダーとする「正法眼蔵 12巻本」プロジェクトの発端ということになる。つまり著者の主張は、この12巻本プロジェクトは道元自筆の正法眼蔵の実に巧妙なステルス的変換ということになる。道元自身があれほど嫌っていた「(日本達磨宗)教団」の成立である。

 私見だが、道元が 正法眼蔵「画餠」(絵に描いた餠)巻で言う「画図」は先ずもってメルロポンティの「知覚の現象学」における「始源的身体図式」を意味する。道元はそれを自明なものとしてはるかに先取りしている。

 道元は「禅宗」はおろか「臨済宗」「曹洞宗」といった「五宗」をも本来認めていない。また本書で紹介されている漢詩にあるように「道元はコペルニクスよりも三世紀前を生きていますが太陽と月と地球の位置関係が頭の中に入っていだものと思われます。」 (19頁-20頁) つまり道元において禅師・哲学者・科学者・詩人は混然一体である。

 以上のように著者得丸久文氏は著者の専門の情報工学の誤り訂正符号理論を正法眼蔵、永平広録をはじめとする道元の広範なテキストに対して厳密に適用し解析・読解している。それによって『12巻 正法眼藏』の根本的位置づけという超難問に対して最大の貢献をしたと言えるだろう。私見だが、著者得丸久文氏の分析論証を総合するなら、永平略録とそれをベースとした卍山本永平廣録 、 そして十二巻本正法眼蔵に共通するテキスト改竄のエッセンスは「儒教化+一部道教化」であると考えられる。つまり前衛的ラディカルさの抹消である。極めて残念なことであるが、それ自体非常に蓋然性の高さを感じさせる事態であり興味深い。


②道元思想を解析する: 『正法眼蔵』データベースが示す真実
July 28, 2021
本覚思想・如来蔵思想批判」という道元自身の立場をテーマ化した作品だが12巻本『正法眼蔵』の真偽(道元の真筆か偽書か)の判別論証には成功していない
Reviewed in Japan on August 7, 2021
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キーセンテンス(つまり核心的なポイント)を以下に転載する。
37頁から引用
「筆者の観点では道元が「本覚思想・如来蔵思想」批判をしたことは「そのとおり」とうけがえるものであるが、それを克服するに道元は「行為論」(「修」、修証一等あるいは仏道修行、あるいは「心身一如」における「身」の問題など)を持ってきたとも思われ、それらが『眼蔵』を構成する重要な要素ともなっていると見なされる」

この筆者の立場は私自身の道元解釈の立場と一致する。以上の引用に直ちにピンとこなければ本書を読むレベルに達していないのでまだ読まない方がいいと思われる。本書はとりわけ難解なわけではなくむしろ読みやすい筆致ではあるが洞察は深い。

39頁から引用「西有(引用者付記:西有穆山)のここでの「公案」の解釈は(中略)「本覚思想」・「如来蔵思想」と見なすべきものである。しかし(中略)道元は「現成公案」の巻で、西有が述べるような説示を、本当に試みたのであろうか。筆者はこれに対して、否、と考えるものである。」

41頁から引用「「現成公案」の巻における「公案」という用語について(中略)そのほとんどは西有の解釈によるか、あるいはその亜流と見なされる。」 

筆者によればこれでは本覚思想・如来蔵思想(範疇的にはアニミズムに還元される)と区別され得ない。

53頁から引用「(引用者付記:「現成公案」巻の「諸法の仏法なる時節」の)「諸法」については、仏道修行をしている場合の、「諸法」と受け止める。」

76-77頁から引用「この「時節」の中には主体の行為があってのことではあるが、それが「認識」(思惟)の次元にとどまる限り、「仏道修行」ではないのであって、「行為」・「実践」こそが「仏法なる時節」を将来するのである、と 道元は述べている」

85頁から引用「仏祖が「自己」と「面授」した、その時(正当恁麼時)には、それは「仏」と「仏」とが面授することにほかならない(中略)そこでは、唯、仏と仏とが対面をしている、すなわち「唯仏与仏」ということなのだ」

86頁から引用「仏道修行をするものが、その「行為」をすることで、それ自体、すでに「仏 である(あるいは既に「仏」となっている)、という見方は、 道元独特の考え方である、と 言ってよい。」  

89頁から引用「真に仏の教えを学び、真に仏の行為を作している(仏作仏行をなす)ものとしての「身心」は、すなわち「仏」なのである。行為(行動)こそが(中略)「本覚思想」・「如来蔵思想」を打破する道なのである。身心脱落という「証」の「状態」は、この延長線上にある。」 」

113頁から引用
「「修証」ということも(中略)行為をしたのちに何か(悟り)が得られる、というものではない。(仏道修行という)行為とその果(仏となっていること)の証しというのは、同時(事)・同参なのだ。そこに(中略)「現成公案」がある。」

123頁からの引用
「「本証妙修」という、近代のある時点で、誰かが標榜し、称え始めた「造語」(中略)ならびに「本証」および「妙修」という語は、到底、 道元の思想のエッセンスを伝えているもの、とは思われない。」

つまり井筒俊彦がどれだけ称揚しようと大乗起信論は道元の核心にヒットしないし、中沢新一がどれだけ称揚しようと華厳経は道元の核心にヒットしない。それらは道元にとってつまるところ超克の対象である。道元のみではない。鎌倉(期の)仏教という言い方には極めて重要な意味がある。それは華厳経と大乗起信論(本覚思想・如来蔵思想)超克の巨大な運動の始まりを告げるものだからだ。そしてそれは現在も続いている。


③数学21世紀の7大難問―数学の未来をのぞいてみよう (ブルーバックス) January 21, 2004
by 中村 亨 (著)
ソフトで柔軟な文体の良書
Reviewed in Japan on September 19, 2021
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各数学的概念の説明自体はこれ以上はなかなかできないだろうレベルでわかりやすくコンパクトである。レビュータイトルにもしたが、著者のソフトで柔軟な文体のせいだろう。つまりこれだけ難解なことをたったこれだけのスペースでかくのは無理だからだめというレビューは必ずしも正しくない。逆にこれだけ難解なことをたったこれだけのスペースでかなりの程度噛み砕いて説明できたということだ。

個別の問題についてだが、特に「ヤン-ミルズ(理論)の存在と質量ギャップ」は非常に興味深い。場の量子論自体の存立、より普遍的には古代以来の自然学=物理学と数学との不可分な関係性それ自体の存立が賭けられている超難問だという事が理解できる。

また最終章「ナヴィエ-ストークス(方程式の解)の存在と滑らかさ」の記述での一般式とニュートンの運動方程式との対応関係を全ての項(質量=密度、加速度、外力、圧力、圧縮[ミレニアム問題では=0]、粘性に関する項)にわたってこのようにわかりやすく説明している記述はあまりないだろう。ただしこの最終章の最後の7頁以降における「弱解」の活用を巡る記述はさらに色々参照しながらでなければ(無論ここに限らないが)読解はかなり難しい。


④近世仏教論 February 10, 2018
by 西村 玲 (著)
本書に秘められた創造的な破壊力は大きい
Reviewed in Japan on August 1, 2021
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43歳で自ら命を絶った西村玲氏の著作『近世仏教論』は2019年4月に読んだが、間違いなく歴史に残るだろう。

わずか初めの6頁弱で当時のアクチュアルな歴史状況と近世へと受け継がれてきた仏教思想の核心が浮かび上がる。本書から分かるのは富永仲基の思想と実践は無神論的合理主義というよりむしろ生身の個人としての釈迦への帰還であるということである。そこが無神論的-科学的合理主義者であった企業家山片蟠桃との違いだ。ともに仏陀個人に還帰すべきと説いた普寂と富永仲基の二人が共有するキーワードは西村玲氏が明確にしたように「方便」である。

以上富永仲基のイメージを解毒する西村玲氏の作業についてコメントしたが、例えば本居宣長と平田篤胤の場合は仏教とのイデオロギー闘争上利用したという側面が強い。以来その誤ったイメージが根付いてしまった。不幸なことであるが、それが本書から如実に読み取られてしまうのだ。


⑤問題=物質となる身体 「セックス」の言説的境界について May 19, 2021
by ジュディス・バトラー (著), 佐藤 嘉幸 (監修, 翻訳), 竹村 和子 (翻訳), & 1 more
本訳書の原書への2003年4月のレビュー再掲
Reviewed in Japan on May 28, 2021

以下に過去の私のレビューを転載する。なお原書は刊行時概ねリアルタイムで読了したが翻訳書は読んでいない。これが翻訳されるまでこれほどの時間がかかったのに驚いている。私にとっては90年代の思索の素材である。下記に転載した一部に「2020年06月08日(月)現在米国を始めとしてジュディス・バトラーにインスパイアされて活動している者たち(現時点での本書の読者も実はそうなのだが)は、近未来米国において本格的に起こるであろう途轍もなく巨大な変容の担い手「ではない」。それはむしろ逆ベクトルの者たちである」と書いたように、三周回遅れである。

転載開始
Reviewed in Japan on April 17, 2003
驚くほど長く、そして回りくどく思えるほどに厳密さにこだわったセンテンスが続く1993年出版の本。主にジジェク(ラカン)とクリプキを論じた7章から引用する。

例1.「批判的に見れば、遡及的に固定指示としてのあらゆる命名行為のモデルとなるこの端緒の命名儀式/洗礼という場面は、一人の人物を宗教的な血統/家系へと呼び出し組み込むこと(interpellation)を通じたその人物への指示対象の固定であり、同時に、父なる神がアダムに対して行った原初的な命名行為へと遡り反復する父の家系をその人物へと教え込む〈命名行為〉なのである。従って、この指示対象の〈固定行為〉は、ある原初的な固定指示行為を引用し召喚すること(citation)であり、息子に対する命名行為が神に裁可された人間の共同体における彼の存在/生存を創始する神的な命名プロセスの反復である」(p.212)

例2.「自らの存続を引用の連鎖citaional chain)の未来に依存する意味するものによって可能になるものとして、エイジェンシーは、反復可能性における隙間/切れ目(hiatus)、反復を通じて自己同一性の設置へと強いることであり、まさにこの自己同一性が執拗に排除しようとする偶然性、不確定な合間/隔たり(interval)を必要とする」(p.220.)
とはいえ、彼女の本でこれ以上にスリリングなものは多分これまでになかったし、これからも生まれないのではないか。
2003年レビューここまで
付記
彼女の思想的・哲学的背景を知る参考のために、彼女に関する私自身のツイート(一部簡略化した)を以下に転載する。

以下転載開始
2020年06月08日(月)
現在米国を始めとしてジュディス・バトラーにインスパイアされて活動している者たち(現時点での本書の読者も実はそうなのだが)は、近未来米国において本格的に起こるであろう途轍もなく巨大な変容の担い手「ではない」。それはむしろ逆ベクトルの者たちである。
つまり彼女たちまたは彼らは、その恐るべき米国の巨大な変容の津波の最後の防波堤になるべく死にもの狂いで行動している。その恐怖を察するに余りある。果たして米国だけだろうか? 言うまでもなくグローバルな事態だ。ただし主な舞台は欧米でありあくまでも米国が変容の焦点になる。

2019年02月22日 23:30:57
つまりジュディス・バトラーはイエス・キリストそれ自身に極めて接近したイエスの分身としての改革派ユダヤ教徒なのである。そしてイエス・キリストは仏陀それ自身に極めて接近した仏陀の分身でもあった。

2019年02月22日 23:21:14
これまでのスレッドで引用してきた「哀悼可能性の配分への批判」を初めとするジュディス・バトラーの全ての言葉を振り返るならこのことは明瞭である。

2019年02月22日 23:16:10
ここであることに気づかないだろうか? ここでのジュディス・バトラーのポジションは、まさに「改革派ユダヤ教徒」として出発し極めてラディカルな「保守派(正統派)ユダヤ教(徒)」批判を展開していたイエスのポジションに類比的なのだ。

2019年02月22日 23:06:55
つまり上記 Bodies That Matter アマゾンレビューの引用箇所におけるジュディス・バトラーのクリプキ批判は「改革派ユダヤ教徒」による「保守派(正統派)ユダヤ教(徒)」批判として読むことが可能なのだ。

2019年02月22日 16:19:00
このジュディス・バトラーの「哀悼可能性」概念を考えるために、 ドラマThe Walking Dead
は格好の素材になるだろう。それはあらためて米国を考えることでもある。

2019年02月22日 07:33:45
ジュディス・バトラーは改革派ユダヤ教徒であるようだが、彼女がクリプキをこのように読める重要な理由またはそれを可能としたファクターはまさにそれだろう。引用の連鎖や反復、隔たりといった鍵概念の発明とこうした使用。しかしそもそもクリプキが丸ごとユダヤ教の系譜だ。

2019年02月21日 07:38:04
ジュディス・バトラーは記述レベルでどれだけ成功したかどうかは別にして、権利問題をその都度の経験の事実それ自体として生きかつ考えることに自らの理論と実践を捧げている。それが彼女が本物の哲学者である理由である。

2019年02月19日 19:52:15
ジュディス・バトラーとフーコーの共通点は(またバトラーがあれほどフーコーに惹かれた理由は)両者とも自らの本格的な思考活動をドイツ哲学を読むことから始めたということである。両者とも自らの思考言語(特にフーコーの場合は同時に詩的言語)を母語とドイツ語の複合体として磨き挙げた。

2019年02月19日 19:38:36
ある方も語っていたが、つくづくジュディス・バトラーは変わってない。何十年経っても。それが彼女の本物さと言うか素晴らしさである一方、現在の状況における痛切な弱点にもなるのだが。

2019年02月19日 12:51:32
ホッブスの社会契約理論批判の文脈で:「抗争は相互依存性の一側面として考えられる。」 ジュディス・バトラー の言葉

2019年02月19日 12:27:26
「哀悼可能性とは、ある生の喪失が対象化可能であるのに対し、ほかの生はその対象化可能性が少ないか、あるいは全くないことを意味する概念である。」  ジュディス・バトラー の言葉
この批判に類比的な作業を私は「汎優生主義」批判の形で行った。

2019年02月19日 12:21:16
「生の価値が不平等に配分される世界にある中で、私たちは生政治的なーーあるいは死-政治的なーー哀悼可能性の配分への批判を必要とする。」  ジュディス・バトラー の言葉

2019年02月19日 12:14:35
「その世界では、すべての生は生きている世界に等しく結びつけられたものとして価値を持ち、生きているものと死んでいるものの両方に負うところがあり、そして、世界を再生させる使命を帯びている。」  ジュディス・バトラー の言葉

2019年02月19日 08:21:43
「再生のダイナミックな条件は、たとえどれだけ苦難と困難に満ちていたとしても、私たちの生がよってたつ条件であり、よりいっそう私たちを生きさせてくれる世界を再生産するために守らなければならない条件である。」  ジュディス・バトラー の言葉

2019年02月19日 08:04:52
ジュディス・バトラー の言葉: 「私が発見したのは、自分が住む世界の再生が私の働きにかかっており、私の働きは世界の再生なくしてはないということだった。」

2019年02月19日 07:38:27
「セクシャリティとジェンダーの領域で既存の学問領域が発揮している権力を失効させるためには、新たな主体性を形作ることが決定的であった。」
以上転載終了


⑥なっとくする数学記号 π、e、iから偏微分まで February 18, 2021
by 黒木 哲徳 (著)
5.0 out of 5 stars 凄い入門書
Reviewed in Japan on May 4, 2021
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網羅的に高度な洞察に到る路をここまで噛み砕いて軽やかなスタイルで開陳した凄い入門書はなかった。教育的な狙いとしては現代数学への入口になっている。

上記網羅的に高度の一例としては、線形代数と関連領域だけでもsgn・行列式・rank・行基本変形・転置行列・対称行列・交代行列・固有値・単位行列・逆行列・直交行列・対角行列・エルミート行列・ユニタリー行列・ラプラス展開・トレース・次元・Im・Ker・次元公式つまりほぼ基本的な全領域をカバーしている。開集合・閉集合の構成論理(近傍・集積点・閉包・内点・内核・境界点)やディラックの超関数(ディラックの測度)の導出計算過程も必要最小限の記述で要点を押さえている。

なお、194頁の行列式の絶対値による平行四辺形の面積の公式が正しくはマイナス記号がプラス記号の誤植になっているのに注意(誤植av+はav−が正しい)。また多変数積分のヤコビアン迄出てくるが著者のマジックの様な記述で驚くほどスムーズに理解できる。そうなるように全体が緻密に体系化されているからだ。

 最後から2番目の第52章のベクトル解析「rot(回転)」の記述は全体で5頁だがここまで簡潔にして高密度の記述はかつて無かったかもしれない。本書の大詰(50~52章)はベクトル解析で最終章53章はガンマ関数とベータ関数である。やはりリーマンゼータ関数等に到る路の入口へと導くことが本書の狙いだったと言えるだろう。


⑦空海の言語哲学
例外的異端としての仏教・真言密教(井筒俊彦に見えなかったこと)
Reviewed in Japan on October 3, 2021
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空海の言語哲学論・空海論として(また極めて精密な唯識思想の紹介としても)最高峰なのは間違いない。井筒俊彦の空海論が空海自身にヒットしていないことも明らかに示している。井筒俊彦は空海の言語哲学を自らの過度に一般化した枠組みに当てはめ比較文化論的に世界中に普遍的にある一例だといつものように言っている。

参考 前掲書376-377頁
「井筒の思想には、どこか発出論的な見方が常に付きまとっている(中略)空海の言語哲学に関する限り、井筒の論説は私にとってはほぼ受け入れがたい(中略)仏教が、多彩なインド古代の思想の中で、実は例外的に異端であること(ゆえに東洋思想全体の中で異端であるはずのこと)に、もっと注意を払う必要がある。」

忘れられがちだが、非常に重要な仏教の肝である。

前掲書284~290頁から引用
「密教は言語を密合・暗号として用いることに、一つの活路を見出している(中略)この時、正しい了解が、師伝等によりひそかに示されていなければ、適切な理解は生まれえないであろう(中略)その秘密性はやはり問題とされなければならないであろう。」


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